昭和46年01月08日 朝の御理解



 御理解 58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 段々信心の稽古させてもらいますと、この辺の所がよく分かって来ると思うですね「神がよく見ておる」と「しっかり信心の帯をせよ」と。神様が見通し聞き通しそういう中に私共が、そういう御守護を受けながら生活させて頂いておる。ですから例え人が悪口を言うても、それが極端な「お前は泥棒じゃ乞食じゃ」と言われてもです、神様が見ておいでの世界に生き抜かせて頂く事が信心だと分からせて頂いた時にですね。
 それは実にたわいもない事、実にそれは問題にならない事。俺が何時泥棒したか、私が何時乞食をしたかと、言わばまあむきになる事も何もいらん、いやむしろそこからねそういう例えば事の時に、これは何か神様の御都合があるに違いはないなぁと。自分が人から、この様に悪口を言われたり、又は恥ずかしい目を受けたりすると言う事なんです。ですから是は愈々神様のご都合があるなぁと分からせて貰い。勿論その神様のご都合というのは、今よりもよりおかげを下さろうとする。
 今よりもより力を与えて下さろうとする、神様の神計らいだと分かって来る様になりますとその事が、又心の底で有り難いなぁと、言わば心の底でまあ繁々笑っておれれる事にもなるんです。所までお互いの信心を矢張り進めて行かなければならない。そういうものの見方考え方が出来る様になるという事を「信心する者は肉眼を置いて心眼を開け」と仰るのはそういう事だと思う。人から悪口を言われる事が悲しい腹が立つ。
 ですから信心の願いというものがね。人がこう私の事を言うております、こう悪口を言うとる。それは困ったなぁそれは早く、あんたが泥棒しとらん事を、乞食をしとらん事を、分かってもらう様に、お繰り合わせを願わないけんなと、まあ言う様な所から始まる。こんな残念な事はありません、と例えばそういう願いがねまず立てられる。そしてなら取り次ぎをさせて頂くでもです、そこん所を一日も早う分からせて頂くように、おかげを頂かなければならない。
 先日もある嫁さんが銀行から金を十万円取ってきて、確かにここに入れたと思うお金がない。それでその若い嫁さんが疑われた。それでお願いに見えただからあんたが取っとらんとじゃからね、あんたそげん心配する事要らん。そうばってん疑われてからこう色眼鏡で見られるのが辛いとこういう訳である。とにかくほんならいわば濡れ衣を着てる訳ですから、そこん所をお願いしなければいけませんね、お願い致しましょうと。
 それからすぐ翌日には、お礼に出て来ました。そこの自分の主人の弟さんがおる、その弟さんがちょいと借って行っとったち。おかげでまぁ濡れ衣はとられた訳である。だからそれをおかげと思う時代。勿論おかげはおかげです、本当の事が分かったのですから。けれどもね、勿論そういうおかげも頂かなければならない、そういう時に信心させて頂いておると、本当の事が分かってくる。
 例えばね先日私がこういう話を日田の綾部さんから聞かせて貰った。是はまあ日田随一と言われるほどしに、まぁお金持ちさんなんです所謂金満家です。それでもその家庭のその、始末のされる具合というのはですね、まぁだそのガス水道のなかぐらい、アイロンでん何でん、昔布敷いてね火を起してから、こうやってアイロンをかけなさる。まぁ本当に、ういう、何億と言うお金を持ちながらですね。
所がそこのご主人がですね、人があら乞食のごたる奴じゃあると、けちんぼじぁという噂を聞くと大変喜ばれる。こぉれはまだ家の財産は又貧乏ごともせんぞ、人がそげん言いよるごたるならばという訳なんです。私はこれは一つの理だと思うですね。人が確かに、あそこはけちんぼという間は、このこの財産は揺るぎはせん。まあそれはまぁその普通の考え方ですよね。所謂守銭奴とでも申しましょうかね。
 もう金んなる事なら人が泥棒ち言うたっちゃ、乞食ち言われたっちゃもうとにかく、金を握っときゃもう繁々しとれる訳です。私は信心もやっぱり、だんだんおかげを頂くとですね、そういう事になってくる。言うなら守銭奴じゃなくてもです。所謂もう徳の亡者と私はいっつも言うんです、私自身まあそういう意味で同し事だとこう思う。私はもう徳を受ける事なら、人が馬鹿ち言うたっちゃたよかと思う。
 まあ本当に分からん人が、まあどげな悪口言いよったちゃ聞こえてきても、本当に嬉しいです。こぉりゃまだ良いお徳がまた受けられるなぁと思うです。同じ意味です。それはね段々本当な事が分かって来たからです。こういう顔に関わるような事を言われて、とにかく辛抱は出来ん。それが信心の浅い時、また信心のない時の考え方でしょう。ところが、信心がだんだん分からせて頂く、所謂ここんところに信心の帯をしっかり、私共がそう言う様な所を通らせてもらう時です。
 それは泥棒してもおらんのに乞食しておらんのに、乞食じゃと言われた泥棒だと言われたりすりゃ、腹も立つ腹が立つなら腹が立つ程、向こうに向けずに神様の方へ向けよ。それを言わば、信心の帯と言う事ではなかろうかと。俺がいつしたかと言うた人に向って行くのじゃなくてです、そういう時に自分の心を愈々神様へ向けて行くという事。それが、信心の帯をしっかりしておく事、信心の帯をしっかりして行く事になる。
 そこから段々体験も積んで行く事になり、いわゆる肉眼をおいて心眼を開かせて頂く事の、おかげを頂かれる。わしとあなたは羽織の紐よ、堅く結んで胸に抱くかなんか歌があります。昨日から頂いております御理解の様にですね、その事が一つの、風情になる。例えば、今頃ないです、昔の家には、必ず、お便所のそばには、南天が植えてありましたね。それは、言うならば、臭い所に、植えられてあるんですからね。



けれどもその南天にね、赤い実がつぶらになって、それに例えば、先日の雪のような雪でも降ると、実に風情なものでしょうが。雪そのものを、一つの風情にしておる。例えばそういう、困ったとか、難儀とかと言ったような事をですね、一つの風情と見れれるところまで、おかげを頂くという事は、やはり、肉眼をおいて心眼を開かねばならない。
 家庭においては、ですからその難儀なところをです。自分が取っとらんのに、負わせられておるような気がする、そんなら、やはりそれを願うて行って、自分の証を立てるという事もおかげ。けれどもそういう時にです。これはいよいよ神様がなんか深い御神意がある事だぞと、その深い御神意がある事をです、分からせて貰い、信じさせて貰える。そこに、信心の歩みを一段と、心を神様の方へ向けて行くところからです。例えば、その疑いも晴れる時期が必ず来るだろう、だけではない。その事を通して、私共が、神様の、言うならば、心深く信心を分からせて頂く事が出来ておる。
 言わば、肉眼をおいて心眼を開かせて頂く稽古が、そのようにして出けて行く。はぁ困った事であると、と言うようなね、思い方ではなくて、それがおかげであると、いや、おかげであるという事がです、一つの風情だと。もう、七、八年も昔の事でした。吉木というところがあります。吉木から、お参りをして来る親子がありました。私共の若先生と、小学校の友達の息子がおる。まぁだ学校へ、上がったばかりの、一年か二年生ぐらいのことであった。もう、それっこそ、体全身にカサが出来ておる。
 もう、その子を抱いて来ると、そこの、畳一枚ばっかり、カサのツが落ちてから、もう本当に、側に寄るろごつないごたる、ひどいカサであった、もう、あらゆる、温泉という温泉、薬という薬、医者という医者にかかったけれども治らない。子供が、学校へ行きますから、お母さんは、当時の椛目へ、椛目の方へ下って参って来る。そして、ゆっくり御理解を頂いて、ひと上りして学校へ迎えに行く。
 ある日のこと、その迎えに参りましたらね、十人ばっかりの子供達がね、中に人を囲んで、とにかくその石を投げたりいろんなその、言いよる。行ったところが、中に居るのが自分方の息子じゃ。はぁ、もうこのカサあり、もうお前のごったっとは、傍に寄られん、石を投げられる、子供達がしとる。体に石にその出来とる、頭から顔からね、もう俣くらまで出来とる。それを見た母親がですね、もうそれこそ本当にその子供達を、突き退けてですね、もうその真ん中入って、子供を抱いてからそこで泣いたち。
 もう何という、恥ずかしい思いをすることであろう、何というひどい事をする子供達であろうか。真ん中に入って、皆からいじめられている子供を抱いて、その中でです、子供を抱いて泣いた。そのまま、子供を連れてからまた、椛目の方へ参ってきました。先生、こんなに情けない思いをした事はございません。どうぞ、この子供がね、おかげを頂きますようにと言うて、お願いを、それこそ涙ながらにされました。それで、私がその時に、その方に申しました。はぁ、あの人が、とてもあげな、カサハチの息子を、毎日椛目に連れて参りよってげなが、でも、あげんとがようなるごたるなら、椛目の金光様に、誰でもそうにゃ参るばのち言うて、村内の者も言うくらいであった。
 そういうのを学校にやるもんですから、学校中の者から、言わば、はやしたてられて、カサハチの、お前のごたると言う風に言われる。人はとても、お母さんの名前は、藤しゃんち言いよりましたが、藤しゃん、あんたが、この人ば、椛目に連れち参ってから、あんた、ようなるごたるならば、そりゃもう、椛目の金光様にゃ、そぉにゃ村内中で参るじゃろのち言うてから、その、言うて、参るなと言わんばかりに言われたけれどです。ですから、その、あなたがね、そういう言われる事をです、言われる事を、言うならば、神様の宣伝でもしておるつもりで、おかげを頂いたら良いと、私は申しました。
 言わば、神様のね宣伝と言うか、神様の御用をさせて頂いておる。こういうカサハチを連れてまわって、人から笑われそしられたり、又は、そげんとが参って、どうして神様のおかげを頂くのと、人から言われておる時にはです。それだけ神様の宣伝が行き届きよる時と思うて、お礼を申し上げる心にならせて頂いたらいいですよと。何故って、おかげを頂くのは絶対なのだから。だからこれがおかげを頂いた暁には、とてもあがねカサハチが、椛目の金光様で、全快のおかげを頂いたという事になればです。
 それこそ神様の素晴らしい御比礼を輝かす事になるじゃないか。してみるとその事は、辛いごとあるけど、苦しいごとあるけれど、神様のそういう切なる願いがね、あなたの上にかけられて、あなたを通して、神様の宣伝をあなたがさせて頂いておるんだという頂き方になったら、笑われても、そしられてもええ、その事に対してお礼を言うような心持ちになるとおかげを頂くよ、と私は申しました。
 神様から、私、その時頂いたのはね、丁度お宮あたりで、立て札があるでしょう、こんな。例えばここで、馬から下りなければならんとかね、色んなこう立て札がある。あの立て札にね、いわゆるその、宣伝文句が書いてある所を頂いた。だから私はそう申しました。これは、藤しゃん、あんたが、そこん所をね、人から笑われりゃ、笑われるしこ、はぁおかげ頂きよるとと思うて、お礼ば申し上げる気持ちになったら、有り難いよ、おかげ頂くよ。もう本当にですね、笑われりゃ笑われるほど、、人がどうか言や言うほどです、おかげを頂いて神様の、言わば、御比礼を輝かせて頂くための御用を、私共が、役ばさせて頂いておるというような思いに段々なって来た。
 さぁ、それからですね、おかげを受け出しましたら、どうでしょうか、今でも、秋山さん達やら、中村さん、よう知ってありますよ。もう本当にですね、もう、大小便から血膿がどんどんどんどん下るごとなりました。小便から血の小便が出る。血海の様な小便が。大便からは、もう膿が混じったのがどんどん出るようになった。それからもうまたたく間でしたよ。もうそして色の白して、もうそりゃあもう女子にしたいごたる、立派な肌になりました。
 当時、その吉木で、やはり吉木から、沢山参りがありましたが。やっぱですね、沢山参って来るようになりました。ところが本人自身がおかげを落としまして、まあ、お参りをしませんからね、ある事情、問題があって。ですから、まあ吉木から、昨日、その話が出たんですけど、ほんに吉木からあげん参りがありよったつが、参りがない、たった今、国武さんが一人参って来なさるだけだと、まあ言う事でしたけれどです。そういう言わば頂き方なんです。なら当時は、椛目にお参りしよった方達が、ちょっと、ほんのもう御神酒さんだけです。
 それを、御神酒を拭いてから、体中に拭いて、それが、痒いけん掻くもんじゃけん、あぁたもう、畳一枚が、もう、ツやら、カサやらが、場合には、汁が付くような、状態。神様の御神意というのは何処にあるやら分からん。だから、どうして、カサハチと言うか、どうしてそげんこなすかと言う事ではなくてです。その事がね、神様の御比礼を、輝かせておる、そういう御用に使うて頂いておるんだという様な頂き方。
 今日は、佐田さんの導きで何回か参って来られた方が、ちょっとノイローゼのような感じで、病院に行っておられたけれども。とにかくいくら居っても病院で良くならんと。それで一心に神様にお縋りしてと言うて、まぁ大変な神様の言わば、神様を好きなさらん反対のご主人が、これは合楽に参っておかげを頂かにゃと言うような気持ちでお参りをしてられる。今朝そのことで参って来ておられる。本人を連れて来ておられる。
 ですから、沢山こうやってお参りがあっておるし、その色んな、ちょっと違った事を言うたりしたりするとです、やはり皆が、迷惑する、困ると言うようなね、考え方ではなくて、私はね、それこそ、今のじゃなかばってん、一つの風情とみた。合楽教会のです、こういう難渋な病人でも、やはり、合楽の金光様へと、お縋りに来ておるという事は、合楽教会の一つの風情だと思うた。そしたら先ほど、今申しましたように、南天に雪が一杯積んでおるところを頂いた。
 なるほど、雪が積んどるほどに冷たい事、親御さんにとって見りゃ、尚更そうである。又は、恥ずかしい思いもされる事であろう。けれども、それがね、むしろ合楽教会の風情になるのだ。おかげを頂く事は絶対のものとしてです、思う時に、その事は、はぁ、あげな人が、ああいう病人が、合楽の金光様に助かったという事になりゃ、合楽の金光様の御比礼になる事。
 ですから、そりゃ、「馬鹿」と言われても「阿呆」と言われても、いや、「乞食、泥棒」と言われてもです。しっかり信心の帯さえしとりゃ、その事が障らないようになる、障らないどころか、その事に対してお礼が言えるようになる。そういう事の中に、お礼が言えれるような心、そういう姿こそね、私は、助かった人の姿ではなかろうかとこう思う。綾部さんの、日田の、まあ、いわゆる億万長者の方がです。
 それこそ、爪に火を灯すような生活をしておられる。この電気製品の一杯あるのに、まだ電気アイロンいっちょ買うちゃない。何億という金持っちょる。それが人がまぁだありゃ乞食のごたる奴とか、けちんぼじゃちて言う評判を聞いとりゃ、喜びござる。はぁまぁだ家の財産は、こりゃまぁだ揺るぎはせんぞと言うて、喜びござるという。私はどんな、意味においてでもです、私共の信心のこれが徳であろうか、これが信心の言わば、肉眼をおいて心眼を開かして頂いておる過程ではなかろうかと思わせて頂いたら。
 その事もまた、有り難い、いや、有り難いという心の底でね、ニコっと笑いたいごたるもの。神様はこの次には、どげなんおかげば下さろうと思いござるじゃろうかと思うてね、楽しゅうなるです。本当。心の底にね、そういう時にです、普通で言うなら血の涙も流れる様な時でもです。なるほど叩かれりゃ痛い、そりゃ血の涙も出るかもしれん。
 けれどもその底にはね、神様がここんところを通り抜けたら、どげなおかげば下さるつもりじゃろうかと思うたら、それこそニコっとせにゃおられん。という所までね、私は神様を信じれれる信心、それには「しっかり信心の帯をせよ」と仰る。誰が何と言うても、そしっても問題じゃない。ただ神様へひたむきに進んで行く、そういう生き方を、私はしっかり信心の帯が出来ておる時なかなければ、出来ないと思うのでございます。
   どうぞ。